隣人の生活音

社会人になって初めて住んだアパートは、壁がかなり薄かった。

隣の部屋の生活音が普通に聞こえる。

咳払い。

テレビ。

電話。

最初は気になっていたけど、一ヶ月もすると慣れた。

隣に住んでいたのは三十代くらいの男だった。

一度だけ廊下ですれ違ったことがある。

無表情で、小さい声で「どうも」と言われた。

それ以外は特に関わりもない。

ただ、その男には妙な癖があった。

毎晩、深夜二時になると掃除機をかけるんだ。

最初はかなりイライラした。

でも昼夜逆転の仕事なのかもしれないと思って我慢していた。

ある夜、我慢できず壁を軽く叩いた。

すると掃除機の音が止まった。

その数秒後。

壁越しに、小さい声が聞こえた。

「すみません」

少し安心した。

話せば分かる人なのかもしれないと思った。

だが翌日から、別の音が聞こえるようになった。

カリ……カリ……。

何かを引っ掻くような音。

最初はネズミかと思った。

でも違う。

音の高さが、毎日少しずつ変わっている。

最初は床近くだった。

次の日は腰くらい。

その次の日は肩の高さ。

徐々に上へ移動している。

気味が悪くなり、管理会社へ相談した。

すると担当者が困った顔をした。

「あの部屋、今空室ですよ?」

思わず聞き返した。

「いや、男の人いますよね?」

「半年前から誰も住んでません」

その瞬間、全身が冷えた。

だが一番怖かったのはその後だった。

その日の夜。

また壁を引っ掻く音がした。

しかも、かなり高い位置。

耳の高さくらい。

そして突然、壁の向こうから声が聞こえた。

「気づいた?」

男の声だった。

完全に壁のすぐ向こう。

動けなかった。

すると今度は、小さい笑い声。

「やっと話せた」

次の瞬間。

壁が、内側から一度だけ強く叩かれた。

翌朝、怖くなってアパートを出た。

荷物をまとめている時、最後に壁を見た。

そこには無数の細い傷が付いていた。

全部、こちら側から届く高さまで伸びていた。

そして一番上。

天井近くに、爪で削ったみたいな文字が残っていた。

『次は開けて』